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そんなあなたに本記事では、「鎌倉殿の13人の再放送・無料で見逃し配信」についてご紹介いたします。
結論からいうと鎌倉殿の13人は毎週土曜13:05に、最新話のみ再放送があります。
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【鎌倉殿の13人】の再放送はいつ?
鎌倉殿の13人の再放送について、2022年5月時点での再放送予定について紹介していきます。
リアルタイムでの放送を見逃してしまったり、録画を忘れてしまったという方はぜひ参考にしてみて下さい。
鎌倉殿の13人の再放送予定は、最新話だけが土曜の13:05から放送されてます。
そのため鎌倉殿の13人の最新話を見逃した方は、毎週の土曜の13:05からテレビ・インターネットで視聴可能です。
ただし土曜を逃すと最新話の再放送は見れないので、時間の都合が合わない方は見逃し配信で視聴することをお勧めします。
鎌倉殿の13人の深夜の再放送情報
現在、鎌倉殿の13人は深夜に再放送は行っておりません。
もし土曜の再放送を視聴できない方は、U-NEXTの利用をおすすめします。
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鎌倉殿の13人の一挙再放送について
鎌倉殿の13人は土曜の再放送だけでなく、まれに一挙再放送されることがあります。
▼7/16(土曜)NHK総合
・第18回 「壇ノ浦で舞った男」 0:30〜
・第19回 「果たせぬ凱旋」 1:20〜
・第20回 「帰ってきた義経」 2:10〜
▼7/17(日曜)NHK総合
・第21回 「仏の眼差し」 0:25〜
・第22回 「義時の生きる道」 1:08〜
・第23回 「狩りと獲物」 1:51〜
・第24回 「変わらぬ人」 2:34〜
上記のように一挙に一度再訪されている回が放送されることもあります。
【鎌倉殿の13人】を無料で見れる動画配信サイト|再放送の代わりになるVODサービス
2022年5月時点で【鎌倉殿の13人】を無料で視聴することができるVODサービスについて紹介していきます。
以下に表としてまとめているので、ぜひ参考にしてみてください。
配信サービス |
配信状況 |
無料期間と月額 |
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配信中 |
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配信あり |
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配信なし |
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配信なし |
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×
配信なし |
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×
配信なし |
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![NHKオンデマンド]()
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○
配信中 |
105円~315円(税込み)/本
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×
配信なし |
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×
配信なし |
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※2022年5月現在の情報です。
鎌倉殿の13人は
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- music.jp
- NHKオンデマンド
で配信されています。
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2189円(税込) |
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利用可能端末 |
スマートフォン/タブレット/PC/テレビ |
同時利用アカウント数 |
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運営会社 |
株式会社U-NEXT |
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※アプリのアンインストールやログアウトでは解約できないので、ご注意ください。
【鎌倉殿の13人】の作品情報
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【鎌倉殿の13人】は、NHKにて例年放送される大河ドラマの2022年期枠にあたるドラマです。
【鎌倉殿の13人】で描かれるのは、吾妻鏡に記される平安末期から幕末前期にかけての源平合戦や鎌倉幕府をめぐる権力争いです。
それぞれの時代の戦乱や政略を、のちに鎌倉幕府の権力闘争の勝利者となり、また北条得宗家の祖となる北条義時を主人公として、ドラマとして現代向けに描き方の趣向を向けたものになります。
見どころとしては、大泉洋氏や小栗旬氏、菅田将暉氏など演技派のキャスト陣がキャスティングされている点です。キャスト陣の演技力の高さによって、多くのシーンで印象的な表現を楽しむことができます。
また、脚本を三谷幸喜氏が担当していることによって、要所要所でコメディチックなシーンが挟まれており、大河ドラマの中でもとても見やすいものに仕上がっています。
【鎌倉殿の13人】のキャスト一覧
役名 |
キャスト名 |
北条義時 |
小栗旬 |
八重 |
新垣結衣 |
金剛 |
松澤禾蘭 |
北条時政 |
坂東彌十郎 |
北条宗時 |
片岡愛之助 |
りく |
宮沢りえ |
源頼朝 |
大泉洋 |
源義経 |
菅田将暉 |
政子 |
小池栄子 |
梶原景時 |
中村獅童 |
上総広常 |
佐藤浩一 |
【鎌倉殿の13人】のあらすじ
第1話 あらすじ
天城山系の東側には、伊豆国で最も有力な伊東氏の本拠・伊東がありました。現在の静岡県伊東市です。物語が始まる安元元年(1175)、都では治天の君・後白河法皇と良好な関係を築いた平家が隆盛を誇り、平家の総帥・平清盛の嫡男・重盛家の家人であった伊東祐親が、その威光を背景に勢力を伸ばしていました。そして、平治元年(1159)の平治の乱で捕らえられ罪人となった源頼朝は、平家の息のかかった祐親の監視の下で流人生活を送っていました。
第2話 あらすじ
流人生活を送る源頼朝には、少なからず支援者がいました。その一人が、頼朝の乳母である比企尼です。乳母は、夫とともに貴人を幼いころから養育・後援する役目を担います。ただ授乳をするだけではありません。このため、乳母やその一族と貴人とのつながりはとても深いものとなり、強い主従関係で結ばれて大きな発言力も持ちました。
第3話 あらすじ
安元2年(1176)、後白河法皇の寵愛を一身に集め、義兄・平清盛との間を取り持っていた建春門院が35歳で死去。すると、後白河法皇と清盛との蜜月にかげりが見られ、政治の主導権を巡って両者が激しく対立するようになりました。そして、安元3年(1177)に起きた鹿ヶ谷事件で決定的な破綻を迎えます。5月、後白河法皇の近臣が京都東山鹿ヶ谷にある山荘に集まり平家打倒の謀議を巡らせていましたが、6月になって密告により計画が露見。激怒した清盛は首謀者たちを捕らえ、斬首や配流先での虐殺に処したのです。
第4話 あらすじ
治承4年(1180)5月に起きた以仁王の乱で源頼政が敗死すると、代わって伊豆国の知行国主となったのは平時忠でした。「平家にあらずんば人にあらず」という発言で知られる平清盛の義弟です。
第5話 あらすじ
ついに挙兵した源頼朝が最初のターゲットに選んだのは山木兼隆。平家により伊豆の目代(=代官)を任された男です。兼隆の暮らす山木郷は北条から東におよそ3キロメートルの距離にあり、ご近所。加えて山木郷の北には兼隆の後見役を務める堤信遠の館もあり、勢いをつけるには格好の標的でした。 治承4(1180)年8月17日深夜、頼朝に命じられた北条時政・宗時・義時父子らが出撃。堤館に至った佐々木経高が矢を放ち、戦いの火蓋が切られます。『吾妻鏡』には、「是これ、源家げんけの平氏を征する最前の一箭也なり」と記されています。 ちなみに『吾妻鏡』には、頼朝が占いを行わせ、決行を8月17日寅卯とらうの剋こく(午前3時~7時)と決めたとも記されています。この日は、三島社の祭礼の日でもありました。
第6話 あらすじ
石橋山は、現在の神奈川県小田原市の南西にあたります。父・源義朝が治めた鎌倉を目指す頼朝は、まず土肥実平の本拠である土肥郷に入り、山と海に挟まれ小勢でも大軍に対抗できる石橋山に陣を取りました。その数、およそ300騎。 対する平家方は、大庭景親が相模国の武士およそ3000騎を率いて谷一つ隔てた地に陣を引き、さらに、打倒頼朝に執念を燃やす伊東祐親がおよそ300騎を率いて、頼朝軍の裏側の山に陣取りました。兵力の差は歴然。景親は頼朝を支援する三浦党が合流する前に勝敗を決するため、治承4(1180)年8月23日の夜に攻撃を仕掛けます。激戦は翌日まで継続しました。 ちなみに『延慶本平家物語』や『源平盛衰記』などには、景親がまず悪口合戦を仕掛け、これに北条時政が応じたと記されています。
第7話 あらすじ
石橋山の戦いで敗れた源頼朝は、4日ほど山中に潜みました。そして平家方の隙をみて山を下り、土肥実平の案内で真鶴岬から小船に乗って安房へ渡海することに成功します。ひとまず死のふちを脱したのです。当時、海岸線に所領を持つ武士団は交易船や水軍を有しており、実平が用意したのもそうした船です。本城の衣笠城を追われた三浦義澄・義村父子らも有していた水軍の船で安房国に逃れ、頼朝と合流しました。
第8話 あらすじ
実力者である上総広常と千葉常胤を味方に加え、房総半島を制圧した源頼朝。父・源義朝が治めた鎌倉を目指して兵を進め、次なる武蔵国へと入っていきます。 武蔵国は、平治の乱までは藤原信頼が知行していましたが、乱後は平家の棟梁とうりょうである平清盛の四男・知盛が国司を務めていました。このため、武蔵国の武士の多くは、平家の家人として組織されていたのです。畠山重忠をはじめとした武蔵国の武士団が三浦党の本城である衣笠城を攻め、三浦義澄の父・義明を討ち取っていますが、これは小坪合戦における重忠に対する襲撃への報復とともに、平家の重恩に報いるためでもありました。
第9話 あらすじ
石橋山での敗戦からわずか1か月半で奇跡的な再起を果たし、治承4年(1180)10月7日に鎌倉入りした源頼朝。しかし、息つく暇もなく10月16日には再び駿河国へと出陣します。平清盛の孫・維盛率いる平家軍が進行してきたという情報が入ったからです。 都では、頼朝の反乱を鎮圧するため、9月5日に頼朝追討の宣旨が発せられました。清盛の命を受けた追討軍は9月22日に福原を出立し、翌23日には京の六波羅へと入ります。しかし、そのまま進軍せず、29日までこの地に長期逗留とうりゅう。侍大将・伊藤忠清が、陰陽道の悪日とされる「十死一生日」に六波羅を出立することを拒んだためといわれています。石橋山での頼朝の敗戦が伝えられていたため、油断もあったのかもしれません。これが頼朝に、時間を与えることになりました。
第10話 あらすじ
富士川の西岸に陣を構えていた平維盛率いる追討軍が退却。『吾妻鏡』〈治承4年(1180)10月21日条〉によると、これを知った源頼朝は、坂東武者たちに平家軍の追撃をかけて上洛するように命じました。しかし、千葉常胤、三浦義澄、上総広常ら有力な坂東武者が反対します。 その理由は、常陸の佐竹氏をはじめ坂東には頼朝に帰服していない勢力がまだ多数あり、まずは足元を固めるべきだというものです。常胤と広常にとって佐竹氏は、常陸地方の権益をめぐって争う競合相手でした。多くの坂東武者が頼朝に協力したのは、在地支配の安定や所領拡大のためであり、このまま上洛することにはメリットがありません。後白河法皇の救援、そして、平家打倒を目指す頼朝とでは、意識の違いがありました。 坂東武者の協力なくして、頼朝の悲願は達成できません。常胤・義澄・広常らの諫言かんげんを受け入れた頼朝は、上洛を断念して鎌倉へ帰還。その途中の相模国府で大規模な論功行賞を行い、従って戦った坂東武者たちの本領を安堵あんどしました。
第11話 あらすじ
富士川の戦いでの敗退は、平家にとって大きな痛手でした。政権の権威を失墜させ、内乱の長期化・深刻化をもたらしたからです。 治承4年(1180)11月、平清盛は念願であった福原遷都を諦め、京へ還都しました。そして自ら陣頭指揮を執り、反転攻勢をかけていきます。老境にあった清盛ですが、平家を守るため、平家の威信を取り戻すためにまい進したのです。平家の軍事基盤である伊賀・伊勢の家人たちを先頭に近江へ攻め込み、瞬く間に反乱軍を鎮圧すると、続けて以仁王の挙兵に協力した園城寺、平家の大きな反対勢力である興福寺へと攻勢をかけ、着実に退勢を挽回していきました。しかしそれには、当時の人々が恐れおののいた大きな代償を伴いました。
第12話 あらすじ
治承4年(1180)12月12日、源頼朝は仮の住居から新たな御所の寝殿に入る「移徙いしの儀」を行いました。鎌倉入り直後から大倉郷に造営を開始した御所は12月に入って完成しており、この日は、坂東武者たちを従えてあらためて「移徙」、つまり、新邸に移るという儀式を挙行したのです。 そして、続いて行ったのが「着到の儀」。御所の西に造営した侍所に移動し、前月11月17日に軍事長官にあたる侍所別当に任じられた和田義盛が、頼朝の御前で「着到」、つまり、出仕した坂東武者たちの名前を記録していきました。 『吾妻鏡』の同日条には、「御家人ら同じく宿館を構ふ。自爾以降それよりこのかた、東国皆その道あるを見、推して鎌倉の主となす」と続けています。かくして頼朝は鎌倉の主あるじ「鎌倉殿」となり、坂東武者たちは「鎌倉殿」を主君とする従者「御家人」となりました。
第13話 あらすじ
木曽義仲は、久寿元年(1154)に武蔵国で生誕したといわれています。父・源義賢は為義の次男、つまり、頼朝の父・義朝の弟に当たる人物です。無官で坂東に下った義朝とは異なり、義賢は皇太子を警護する東宮帯刀先生とうぐうたちはきせんじょうに任じられ、嫡男の座を与えられていました。しかし、京で失策を犯したため解官されて、仁平3年(1153)に上野国へ下向。ついで、武蔵国に進出しますが、久寿2年(1155)8月に頼朝の兄・義平に討ち取られてしまいます。このため、義仲は信濃国木曽に逃れ、この地で成長しました。 『吾妻鏡』〈治承4年(1180)9月7日条〉によると、義仲が挙兵したのは、頼朝が挙兵した翌9月のことです。当初は、父・義賢の足跡をたどるように上野国に向かいますが、頼朝との衝突を嫌い、北陸へと進出して勢力を広めていきました。
第14話 あらすじ
挙兵した兄・源頼朝のもとへ平泉から駆けつけた義経。当初、頼朝は、義経が奥州の覇者・藤原秀衡から与えられた武力を率いて参戦したことで、義経を介した秀衡との連携を期待しました。 しかし秀衡から頼朝に対する支援はなく、治承5年(1181)8月15日に秀衡は地方豪族としては異例となる陸奥守むつのかみに就任します。これは平家の棟梁とうりょうとなった平宗盛の策略で、秀衡に頼朝攻めを請け負わせるためのものでした。秀衡は中立を貫きますが、頼朝が秀衡を敵視したことは言うまでもありません。
第15話 あらすじ
寿永2年(1183)7月、木曽義仲に攻め込まれた平宗盛は、安徳天皇とともに都落ちし、天皇の正統性を示す三種の神器<神鏡「八咫鏡やたのかがみ」、神璽しんじ「八尺瓊勾玉やさかにのまがたま」、宝剣「天叢雲剣あめのむらくものつるぎ」(草薙剣くさなぎのつるぎ)>を持ち去りました。 この未曽有の事態に、後白河法皇は治天の君として新たな天皇を選定します。候補となったのは、治承5年(1181)に亡くなった高倉上皇の第3皇子・惟明これあきら親王と第4皇子・尊成たかひら親王、そして、木曽義仲が奉じる以仁王の遺児・北陸宮ほくりくのみやでした。卜占ぼくせん(占い)の結果、惟明親王に決まりかけますが、後白河法皇は尊成親王を践祚せんそさせます。後鳥羽天皇、この時、わずか4歳。神器なき異例の践祚でした。
第16話 あらすじ
寿永2年(1183)10月9日に流人の身分を解かれ、従五位下に復帰した頼朝。続いて10月14日、「寿永二年十月宣旨」と呼ばれる命令が朝廷から発せられました。その内容は、 1)頼朝の支配下に置かれた東海道・東山道における荘園・国衙領では、領主・国司の支配を従来通りの形に戻す 2)領主・国司の命令に違反するものは、頼朝が取り締まる というものです。これは粘り強い巧みな交渉が実を結んだもので、以降、頼朝は事実上の東国支配権を獲得し、官軍に位置づけられるようになりました。
第17話 あらすじ
『吾妻鏡』〈寿永3年(1184)4月10日条〉によると、3月27日に除目じもくがあり、木曽義仲を追討した恩賞として源頼朝が正四位下に叙されました。これは、天慶てんぎょう3年(940)3月9日に平将門を討ち取った藤原秀郷が六位から従四位下に昇進した先例に倣ったものです。頼朝も秀郷と同様に、坂東にいたまま勲功の賞を与えられました。また、もう一つの恩賞として、平家の都落ち後に没収され、義仲に与えられていた一部の平家没官領(没収した平家方の所領)を与えられたようです。頼朝は、敵方から奪った所領を御家人たちに与えることで、より強固な主従関係を築いていきます。 ちなみに、九条兼実が記した日記『玉葉』〈寿永3年(1184)2月20日条〉によると、恩賞を打診した後白河法皇に対して頼朝は、「上かみのお計らいに従うだけであり、過分の恩賞は辞退する」と殊勝な返答を行っていたようです。
第18話 あらすじ
遠く鎌倉から弟・範頼、義経に念願である平家討伐を命じる源頼朝。しかし、現場は思うようには進みません。長門(現在の山口県)まで進撃した範頼軍は、兵船の欠如から九州への渡海が難航。長期滞在によって兵糧も欠乏し、従軍する御家人たちの多くが所領への帰国を望むほど士気が低下してしまいます。一方、平家の拠点の一つである屋島(現在の香川県高松市)を攻撃する予定であった義経軍も、出撃の目処めどが立たずに停滞。畿内で平家の郎党が蜂起したことにより、後白河法皇が都の治安を守ることを求めたため、義経はなかなか京を離れることができない状況にありました。一ノ谷の戦いで劇的な勝利を収めた鎌倉軍ですが、平家方は依然として瀬戸内海の制海権を掌握しており、緊迫した状況は続いていたのです。 現代のような通信技術のない当時では、情報も錯綜。『吾妻鏡』〈元暦2年(1185)1月6日条〉によると、この日、頼朝は範頼に宛てて書状を送りますが、それが範頼のもとへ届くよりも早く、事態は大きく動くことになります。
第19話 あらすじ
『吾妻鏡』によると、元暦元年(1184)10月6日に公文所吉書始きっしょはじめが行われ、同20日に問注所が開設されました。御家人を統制する軍事機関である侍所に続き、文書の制作・発給を担当する公文所、裁判を担当する問注所という、二つの文治的な政治機関が源頼朝のもとに設置されたのです。 公文所の長官である別当に就任したのは、広い知識と高い政治的判断力を有する大江広元。中原親能、藤原行政、足立遠元らが寄人よりゅうどとして広元を補佐しました。一方、問注所の長官である執事に就任したのは、頼朝の流人時代から献身的に支え続けた三善康信でした。三善康信は元暦元年(1184)4月14日に京から鎌倉に下向したようです。
第20話 あらすじ
平泉に本拠を構える藤原氏は、特産品である砂金や駿馬、北方貿易などによって奥州に独自の勢力を築いていました。特に砂金は、平清盛が力を注いだ日宋貿易の輸出品として重要な意味を持ち、その功績から藤原秀衡は陸奥国の軍事長官である鎮守府将軍に就任します。そしてその後、陸奥国が後白河法皇の知行国となると、秀衡は後白河法皇と深く連携。秀衡が治承4年(1180)に平家打倒の挙兵をした源頼朝に対して義経を送り出したのは、治承3年の政変で清盛によって幽閉された後白河法皇の救援という側面もありました。 しかし、奥州に対する政治的関心が低かった平家とは異なり、支配領域が隣接する頼朝にとって秀衡は脅威となる存在でした。そこに、天才軍略家・義経が潜伏したとなれば、頼朝と秀衡の緊張関係が一層厳しいものになったことは明白です。両陣営の衝突は、避けられないものとなっていました。
【鎌倉殿の13人】再放送 まとめ
ここまで、【鎌倉殿の13人】の再放送について紹介してきました。
特定の番組を追っている時に、場合によっては見逃してしまうこともあるかもしれません。
そんな時、再放送やVODサービスの利用を検討してみることで、よりドラマを余裕をもって楽しむことができます。
鎌倉殿の13人の見逃し配信を無料で視聴したい方は、U-NEXTを利用するとよいでしょう。
この記事が参考になると幸いです。